飴ちゃん舐めたい

あめ、たまに食べると美味しくない?

最近の悩み

最近、このブログを書き始めた。それに加えて、日記も書こうと思っている。さらに、これは前から続けているものであるが、日中に作業しながら思ったことをメモし続けている。一年間くらいこれはやったかな。で、こんなふうに色々あるとわからなくなってくるわけですよ。それをどう使い分けて、そもそもどれがなんのためにやっているもので、どうするのがいいのか、ってことをここでは考えたいと思います。

じゃあまずいったん、その三つに求めていること、それらの目的を整理してみましょうか。①ブログは、そうだね、ちょっと思ったこと、誰かに話したいな、ということがたまに生じるので、それをアウトプットする場が欲しかったから始めたかな。うん。②日記はまだ始めてから全然日が経ってないのでそもそもうまく機能するかわからないのだけど、後から読んで当時を振り返って楽しむために書いています。昔の自分と今の自分を比較することでどんなことがわかるか、知りたい。きっといろんな発見があると思う。③作業中にとっているメモは、主に思考の整理のために書いている。これはなんというか、あれですね。誰に見せるでもなんでもなく、ただ書いて終わり。書き散らしているだけ。1番の目的は書いた瞬間にちょっとでも思考が整理されること。そう、今ここで行っているようなね。だから本当は普段だったらこういう文章もそっちに書くんだけど、今回はちょっと仕事には関係ないテーマだし、試しにこっちに書いてみた。

で、今回の問題は、これらの立ち位置がごちゃごちゃになってよくわからなくなりそうだし、そもそも日常的に三つも書いているのが大変なんじゃないか、っていうことだね。うーん、思ったんだけど、それはまあやってみればいいよね?そうでしたわ。とりあえずこのまま一ヶ月か二週間くらいかわからないけど、ちょっと運用してみた後に考えます。おしまい。

銭湯の暖かさ

銭湯に行くのが好きだ。最近は交互浴にハマっている。熱いお湯と水風呂に交互に入るやつ。その前はサウナに入っていて整う楽しみを享受していたが、サウナはあんまり銭湯にない。それに髪がパサパサになる。なので最近はもっぱら交互浴。こっちでも十分に整うし、問題なし。むしろ顔は涼しいので過ごしやすく、こちらの方がいいまである。銭湯は最高です。

整いもいいのだけど、銭湯が好きなのはそこにいる人間が好きだから。銭湯にはいろんな人間がいる。部活帰りと思われる中高生の集団、親子、おじいちゃん、お兄ちゃん、刺青の入っている人、なんなら全身残さず墨が入っている人、太っているひと、痩せているひと、就活の話をしている大学生二人組、一緒に交互浴で整っているおじちゃん。本当にいろんな人がいる。そんないろんな人の中、みんなで銭湯という日本文化を味わう。とても生きている感じがする。そこに私は惹かれるのだ。このまちで、みんなで、積み重ねてきたものの上に、生きている感じ。いろんな人が住んでいて、日々の生活を送り、いろいろな嬉しいことがあり、ときには悲しいことがあり、そんなふうに血の通った、色のついた生活をしている。その中で私も共に生きている、そのことをひしと感じられる。つながっている感じがする。お湯ももちろん温かいが、そういうぬくさもまた、私も銭湯へ向かわせるのだ。

書くのに疲れてきた

最初はモチベ結構あったんだけど、あ、書きたい!!っていう感じで。だんだんずっと書いてると疲れてきてかく気がなくなってきてしまった。ほどほどにして休憩するのがいいな。例えば、毎週日曜日に書き溜めておいて一週間それをずっと更新する、とかはどうだろうか?いや、そもそも毎日更新というのが頻度が高すぎるような感じがする。もうちょっとゆっくりにして、少しずつ書いていくのがいいのではないだろうか。そうしようかな。いったんじゃあ、月水金の週3日とかにしておいて、めっちゃ余裕があってストックがたくさんできるようだったら、もうちょい間に差し込んで頻度を増やすとか。それがいいかもしれない。いったんそうしてみようかな。決定ー。

書くという快感

既に記事を三つほど書いてみたが、書くことの気持ちよさに驚いている。自分が思っていたこと、気になっていたことを文字に起こすのは、とても気持ちがいい。心の中を洗い流したかのような。42度くらいの暖かな弱めの滝に打たれたような。それって打たせ湯じゃん。とにかく気持ちがいい。

公開しているからなのかな?それとも、気になっていたこと・思ったことを吐き出したからなのかな?そうだとするとなぜそれは気持ちいいのかな?書いただけで誰かと共有したような気になれるからかな?書き起こすことでこの気持ちをずっと保存して置けるような気になるからかな?なんでだろう。

光の魅力

最近、光の魅力を、強く感じる。というのも、太陽光が低い位置から差し込む季節であるからだ。そう、その光の魅力に気がついたのも、去年の11月頃から。

最初は、なんだったかな?そう、あれかな。草花に当たる光の魅力。例えば、黄色く紅葉した銀杏の葉っぱ。その可愛い黄色のひらひらに、少し低い角度から太陽光が当たる。晩秋から冬にかけての陽光は、低い位置から差し込む。そのため、光の強さも弱く、さらに色も空気中を通過する距離が長いためにマイルドになっている。多分。オレンジ成分が少し多い感じがするよね。私はそう信じています。そして、その光が秋の黄色にあたる。葉っぱは薄く、その光は葉っぱを透けさせる。美しい。少し風に揺れる、死を間近に控えた美しい黄色。晩秋の陽光の中で輝いている。大変美しい。

もちろん銀杏の葉自体の魅力もあるのだが、やはり一番は陽光そのものの魅力。地面に写っている木の葉の影。建物の影と太陽光に照らされたエリアのつなぎ目の、少しぼやけている部分。風で揺れる木の影。全部美しい。寒い季節の陽光は素晴らしい。

中でも美しいのは、地面に落ちた赤や黄色の落葉たちに降り注ぐ陽光。柔らかい日差しが、カラフルな死体を優しく包み込む。その暖かさ、まどろみ。暖かい。柔らかな春の日差しとかいうけど、晩秋の日差しの方が柔らかいと思う。影とのコントラストがあると、なおよし。日の暖かさがより際立つ。いや、生と死のコントラストだろうか?

その柔らかい陽光は、人間をも美しくする。陽光の中を歩く人を見よ。その人の背後から光が射す、いわゆる逆光の向きで。その毛髪の輪郭は、柔らかい陽光により透明になる。風でたなびく光の輪郭を纏っている人。美しい。とりわけブロンドの色が映えるように思われる。

この美しさ、太陽光が低い角度から射すからこその賜物である。日本が高緯度地域にあることに感謝の念を禁じ得ない。ボリビアとか、常春って言うじゃないですか。そういう気候羨ましいな、と思っていたんですが、赤道に近いボリビアではきっとこの美しさは味わえないんじゃないかな?

気になる視線

人の目線がきになる。誰かと一緒にいる時、スマホを見るときは相手に見られないように見る。パソコンで作業している時、後ろを人が通ると見られているような気がして集中して作業できない。特に、文章を書いているときにそれを見られるのが嫌だ。最終的に公開してコメントをもらったり見てもらったりすることになる文章であっても、見られるのが嫌だ。他の人は作業中のパソコンを見られても全然平気そうで、びっくりする。トイレに行くときにも絶対に画面をロックしてから席を立つ。他の人はそんなこと一切気にせず、作業中の画面そのままで行く人もいる。とても驚く。どうしてそんなに気にならないのか。

いや、問題はどうして私がそんなにそれが気になるのか、ということかもしれない。何がそんなに私を緊張させるのか。つまり、そういう気持ちになるということは、何かの脅威を感じているということなのかもしれない。そう、執筆中の私は無防備なのか?何か攻撃されたときに大きなダメージを受けてしまう、脆弱な状態にあるということなのか?わからない。冷静に考えて、誰かに見られたからといってなんともなるわけではない作業しか別にしていない。なのになぜそんなに気になるのか。不思議。

自分が普段使っている席は、部屋のど真ん中にあり、周囲を人が通ることが多い。そんな状況であるから、執筆系の作業をするときは一切集中できず、席を離れて他の誰も後ろを通らない場所へ移動することが多い。なんともめんどくさいことである。できることであればこの気にしすぎる癖を克服したい。どうしたらいいんだろうなあ。

書いているうちにちょっとは考えが整理されて何か問題の解決につながったり自分への理解が深まるかと思っていた。でもそんなことは全然なく、なんなら誰かに見られている気がしてとても嫌な気持ちになってきた。残念。